「芝滑り」【1】住宅地近くの堤防で、子供たちが「芝滑り」をする場所がある。段ボールなどに乗って傾斜を滑り降りる遊びである。 俺としては、子供のころから河川に親しむということで、いいことだと思っているので「芝滑りをやめろ!」と禁止したくはない。 建設省の立場としては、子供が怪我でもしたら、管理責任を追及されないかと心配だろうけど… いつも芝滑りで遊ばれている場所は、草がなくなって、土がむき出しの状態になっていた。 堤防の草は、表面を雨で流されないように保護するという役目もある。土がむき出しの状態は、あまりよくない状況でもある。 子供たちの遊びを妨害せず、堤防も守るという軽い板挟みになったようだ。 車からおりて、草が剥げて土がむき出しの現場を眺めながら、俺個人の判断で動いてみることにした。 【2】 ある日、芝滑りをする子供たちに近づいていった。きびしい注意でもするのかと思われないように、へたな笑顔でゆっくり近づいた。 俺に気付いた子供たちが、芝滑りをやめて、こちらを見ている。 ゆったりした口調で言った。 「このかたい土の上で芝滑りをするより、横の草が生えてる場所でやったほうがよくないか」 こどもたちは、土がむきだしになった場所が、芝滑りをするところと思い込んでいたようだ。 「そっちでやってもいいんですか?」 「そっちでやったほうがいいよ。そしたらここに草が生えてくるから、そしたらまたここでやればいい」 子供たちはけげんそうな顔をしながらも、草の上で芝滑りをはじめた。 「うわあ、こっちのほうがいいや」とわーわーキャーキャー言っていた。 【3】 ある日、芝滑りの場所に、女性が3人立っていて、俺のほうを見てお辞儀をしていた。 たぶん、子供たちに、芝滑りの場所を変えろといったので、苦情でもいいに来たのかと思った。苦情なら、それはそれで聞かねばならないだろうな。車から降りて行った。 女性たちは、みんな神妙な顔をしていた。「こんにちは」と言うと、「こんにちは、ごくろうさまです」と足をそろえて言っていた。 どうしたのかと相手の出方を待っていたら、一人の女性が 「子供たちに、芝滑りをやめるように言われたんですか?」と言う。 「いえ、やめろとは言ってないです。草の生えてる場所でやればと言ったんです」 「では、芝滑りはやってもいいんですか?」 「やっていいと思いますけど。子供たちがなんて言ったんですか?」 「河川パトロールの人に言われたって…」 【4】 「私は芝滑りをやってはだめだとは言っていません。草の生えてる場所でやればと言ったんです」 「そうだったんですか」 「かたい土の上では、けがもしやすいし、土の部分に草を生えさせたいし」 「そうなんですよ。よくすりむいてきたりして」 「子供の時の擦り傷はしかたないでしょう。私もよくやりました。」 「芝滑りやられたんですか?子供の時…」 「ええ、やりました。芝滑りはけっこう好きな遊びでしたね」 「そうだったんですか。…そうなんだって」 と3人で顔を見合わせている。 「草の汚れは、洗濯しても落ちにくいでしょうけど…それくらいは許してやってください」 「土の汚れも落ちないから、いっしょです」 【5】 女性の一人が 「あのー、サインしていただけますか?」 と、メモ帳のようなものを出した。 芝滑りについての覚書みたいなものにサインするのかと思ったら、白紙のメモ帳だった。 「え~と、どこにサインすればいいんですか?」 「ここに大きく書いてください」 「え?まるで芸能人のサインですね」 冗談だろと思って言ってみたが、彼女たちは本気のようだ。 「普通の字しか書けませんよ」 「それでいいです。十分です」 3人のメモ用紙に「サイン」をした。 彼女たちは、俺をどう見ていたんだろうか。サインをねだるってことは、いいほうに見ていたことは間違いないが… 生まれて初めて自分の名前で『サイン』した。 (終) 《 巡視員時代目次へ 》 《 目次へ 》 《 HOME 》 |